誰も知らない2

古典文法・せいようの日記。

葬式とかシューカツの3

ノンフィクションものをあまり好まないわたしだが、立花隆臨死体験」だけは、二冊ともしっかり読んだ。

まあ、きっかけは、筆者の逝去だろうけど。でも読んでみたら、単純におもしろかった。とことん、純粋に、科学的であろうとする筆者の態度が。書き方が。なぜそこまで純粋に、知りたいと思えるのか?臨死体験について。臨死体験というものが、ほんとうに存在するものであるのか、ということについて。

例えば、死にかけている自分の体から離脱して(魂が?意識が?)、部屋の天井のあたりから自分自身を見下ろしている。その時別室にいた人が話していたこととか、離れた場所にいる家族がしていたことまで知ってる。見事につじつまが合っているというか、いわゆる幽体離脱したことの証拠になりそうなこと…がある例を、いくつも挙げてる。

しかしまあ、証拠になりそうで、微妙でもあるんだよねどの例も。結局。立花氏もそう感じたからこそ、いくつもいくつも事例を追究した。で、行き着くところは、脳がそういうものを見せるんだろうと、そんな感じの結論になるんだけど。三途の川がどうとか、死んだ誰それが手を振っていたとか、光のトンネルがどうとか、そういうやつも。全部。

さっきも言ったように、単純に読んでみたらおもしろかったからなんだけど。でも、読みながら考えていた。今また考える。わたしはなぜ臨死体験に惹かれるのか。30歳のときに、父の死を見たことと何か関係はあるのか。ないのか。

 

後にズバリ、「死はこわくない」ってタイトルの本も書いてるし。立花隆。考察に次ぐ考察、取材に次ぐ取材を重ねて氏は、死ぬ時は怖くない、って結論に至ったのだ。

だからわたしたちも安心して、その時までを存分に生きようではないか、と

わたしの言いたいのはそのようなことである。